私 | 高橋 昌人 ♂ 77歳(1944〜 ) 後期高齢青年 【年を重ねるは老いるにあらず。 精神の衰えこそ人をして老いへと導く】 |
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仕事 | 無職、あえて言えば学生。 リタイアリー。 折角いただいた自由な時間ですからこれからも大切にしたいと思 っています。 人間関係が余り上手ではありませんから、気はひけますがもうあの 世界に戻る積りはありません。 |
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住まい | 広島県廿日市市地御前 厳島神社の外宮『地御前神社』に近く、対岸に宮島の端を 望んでいます。 若い頃から『広島に住むなら地御前に』と決めていました。 念 願が叶ってもはや30年になります。 |
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家族 | 家内(このサイトでは『菩薩様』)が逝って淋しくなりました。 子供たちはそれぞれに独立しました。 息子は歯科技工所を営んでいます。 娘は 結婚後もプロ歌手としてソプラノパートを歌い続けています。 また合唱指揮者と しても活躍しています。 孫は4人になりました。 |
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趣味 | チヌ釣り | 故あって休眠中です。 再開の目途もたっていません。 ただ、可能性だけは残し ておきたいと思っています。 |
音楽鑑賞 | 特に古典派、初期ロマン派の交響曲が好きです。 広島交響楽団の定期会員として年20回程度のコンサートを楽しんでいます。 ま た楽団のリハーサルに合わせて交響曲の『譜読み』も楽しんでいます。 |
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器楽演奏 | ギターをちょこっと。 なんちゃって音大生をやっています。 クラシック鑑賞の一助になればいいなぁという思いで始めました。 同時期に始め た孫(中学校3年生)にはもうとてもついていけません。 私からすれば、彼女は 既に殿上人です。 |
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ジム通い | 週に3〜4日程度ジム通いをしていました。 『譜読み』をしながらステーショナ リーバイクを漕いだりしていましたが、数年前に辞めました。 その後は週3〜4 日程度10km程度を歩いています。 |
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サイクリング | 一時かなり興味を持ちましたが、元自民党幹事長の事故以来、「怪我をして家族に 迷惑をかけてはいけない。」と思うようになり今日に至っています。 時々「輪行 もいいなぁ」と思ったりしますが、気持ちと身体が乖離する年齢でもありますし。 |
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山行 | 宮島をくまなく歩いてみようと思っていましたが、これも実現できないまま今日に 至っています。 観光ガイドの一環として中腹までケーブルカーを利用し、それか ら頂上までご案内するくらいで、本格的な山歩きにはなっていません。 |
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自己研鑽 | 英会話 | 還暦を機に一念発起しました。 でも、年数の割に実力はまだまだです。 2013年に英語版HP『宮島探訪』を公開しました。 英語学習の第2ステップ として『恥を恐れず前向きに取り組んで』いきます。 |
通訳ガイド | 英会話学習の最終目的として『ボランティア通訳ガイド』(日本政府観光局JNT O傘下SGG会員)に取り組んでいます。 安全にお連れすること、それと是非ホ ームタウン宮島の魅力を知って頂ければと思っています。 |
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HP公開 | 趣味でもあり、自己研鑽でもあります。 物事をしっかり捉えること。 構想力を 養うこと。 書くということに指先と頭を働かせること。 |
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読書 | 好きですが、ご覧の通りでなかなか落ち着いて読む時間が取れません。 『坂の上の雲』を始め司馬文学が好きで、かつては登場人物を全て諳んじるほど読 んだものです。 現在は英語の軽い物語を読む程度です。(作家の意図を読み取る のではなく、単に英語表現の勉強に過ぎません) |
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座右の銘 | 『恥を恐れず前向きに生きる』 (『菩薩様』の百か日に決意しました) |
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健康状態 | BMI値もいいですし、一応理想体型を保っています。 不整脈と高血圧は経過観 察中です。 18年末に『前立腺癌』の手術をしましたがそれも癒えました。 そ の他には特に異常はありません。 疲れやすくはなりましたが、まだまだ頑張れま す。 |
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望み・夢 | 旅行が趣味というほどではありませんが、音楽の都ウィーン再訪と、イギリス1周 列車の旅が夢でした。 ただ、今の我家の情勢ではとても無理だろうと半ば諦めて います。 |
【チヌ釣りのページであり続けたい】 ・
このページは紛れもなく『チヌ釣り』のページでした。 そして『チヌ釣り』をテーマに『多くの方々と心を通わせられたら』という思いで10数年にわたって『釣行記』をベースに『私の思い』を書き続けてきました。 しかし、私的な理由で釣行が叶わなくなり、2011年以降釣行を中断しています。 それ以降『広島湾のチヌ釣り』という看板を掲げながら『チヌ釣り』に触れられないことの無念さと申し訳なさを思い続けてきました。
ただ、私としては『チヌ釣り』を諦めてしまった訳ではありません。 いつの日か再開できることを念願し、ただひたすら待ち続けています。 そのような思いを込めて、このページのタイトルを引き続き『広島湾のチヌ釣り』とさせていただいています。 また、ブログの見出しも『今年の釣果』のフォーマットをそのまま使わせて頂いています。 皆さんには違和感がおありかと思いますが、何れは元の姿に戻りたい私の思いと受け止めてご容赦下さい。
また、『ダンゴの作り方』や『仕掛け』はかなり古くなっていますが、これも残しておきます。
【人生を共感できたら・・・そんなページ】 ・
「齢68にしてますます青年。 私はいつまでも若々しく生きていきます」 とはいいながら、時は私の上を着実に流
れていきます。 誰しも抗うことができないこの時の流れを素直に受け止め、全てを肯定しながら人生の終盤を楽しめ
たら・・・そんな思いを釣りを通じて語れたら・・・そんなこともこのページの位置付けの1つにしてきました。 ・
釣りを通じてとはいかなくなりましたが、折に触れて私の日常をお話ししていきたいと思います。 あなたの隣にこんな初老の男がいて、こんなことを考えながら生きている・・・こんな私の生き方に少しでも共感していただけたら、それは私にとってとても嬉しいことです。 ・
【これは菩薩様と2人で作るページ、『菩薩の料理』のページ】 ・
『漁師が釣ってシェフが造る。 食も人生の楽しみのひとつ、時を慈しみ時々の食を愉しむ。』 06年の年賀状にこ
のように刷り込みました。 『食べない魚には鉤をたてない、食べない魚は持ち帰らない。』、そして『釣った魚は美
味しく頂く』・・・こんな私の釣りを支えてくれたパートナーが『シェフ』こと『我が家の菩薩様』でした。 ・
手前味噌ですが、この人の発想と引き出し、手際と探究心、それに舌の感覚は本当に凄いと思っています。 もちろん
食べることが大好きで、食べて頂くことが大好きで、食べて頂いた人から「美味しい」といって頂くことが大好きで、
そのためには決して手間を厭いません。 「一手間かけるといいことあるよ」、こんな発想から生まれた数々の『チヌ
料理』をご紹介します。 ・
『お刺身・塩焼き・潮汁』のような伝統的なチヌ料理だけはでなくて、この魚にとっては馴染みの薄い『洋風・中華風
チヌ料理』、時には『あっ!と驚きのチヌ料理』などを我が家の食卓に並んだものの中から二人三脚で紹介していきま
す。 作り方や雰囲気をうまくご紹介できればいいのですが。 ・
ただ、釣技が豊かで多くの釣り人の参考になるかというと、少
し疑わしいところもあります。 このページを立ち上げた1996年の頃には、まだ釣りのページは殆んど紹介されて
いませんでしたので、このページも『ダンゴ釣り』のバイブルとして重宝されたように聞いています。 ・
しかし、現在ではこの手のページは決して珍しくありませんし、釣りの技術や考え方もどんどん変わってきています。
ダンゴで濁しダンゴの中から餌が飛び出すという状況を演出するという、もっとも基本的なダンゴ釣りの考え方、更に
は『ダンゴの作り方』一つにしても既にいくつもの新しい考え方が出てきています。 そういう時流に敏感に反応しよ
うとしないこのページは、もはや一世代前の化石の類に数えられるかも知れません。 ・
この間の私を振り返ってみると、なかなか釣れなかった初心者の頃の探究心には自負できるものもありましたが、そこ
そこの釣果が得られるようになってからはその進化は完全に止まっているように見えます。 一つにはとてもいいポイ
ントを見つけてその後をそのポイントで通したことにもよるでしょう。 『ダンゴの作り方』でも述べたいと思ってお
りますが、ポイントと釣り方が決まれば『ダンゴのあり方』も必然的に決まってきます。 この中にあえてダンゴの変
化を求めても所詮無意味なものになってしまうでしょう。 それが探究心を阻害してきたと言えなくもありません。・
そうはいっても結構安定した釣果を得ている現在においても私の中にゆっくりとしたものではありながら着実な進化が
見てとれないでしょうか。 ダンゴばかりではなく、仕掛けの考え方、餌の流し方、潮に応じた探り方、当たりの捉え
方などなど、私の中ではまだまだ進化を続けている部分があると思っています。 ・
私は『足下どん深』のポイントを得意としていて、それがまた一般的なポイントともいえませんので、私の釣りをその
まま応用し辛い面もあるでしょう。 しかし「それでも何かヒントを提示したい」、そういう気持ちで釣行記を書いて
いきますので引き続きご覧になって下さい。 ・
【人生を共感できたら・・・そんなページ】 ・
「齢65にしてますます青年。 私はいつまでも若々しく生きていきます。」とはいいながら、時は私の上を着実に流
れていきます。 誰しも抗うことができないこの時の流れを素直に受け止め、全てを肯定しながら人生の終盤を楽しめ
たら・・・そんな思いを釣りを通じて語れたら・・・そんなこともこのページの位置付けにしたいと思います。 ・
ことさら項を設けて仰々しく語るつもりはありませんし、私の生き方や考え方を押し付ける積もりもありません。 た
だ、あなたの隣にこんな初老の男がいて、こんなことを考えながら生きている・・・こんな私の生き方に少しでも共感
していただけたら、それは私にとってとても嬉しいことです。 ・
【これは菩薩様と2人で作るページ、『菩薩の料理』のページ】 ・
『漁師が釣ってシェフが造る。 食も人生の楽しみのひとつ、時を慈しみ時々の食を愉しむ。』 06年の年賀状にこ
のように刷り込みました。 『食べない魚には鉤をたてない、食べない魚は持ち帰らない。』、そして『釣った魚は美
味しく頂く』・・・こんな私の釣りを支えてくれるパートナーが『シェフ』、『我が家の菩薩様』です。 ・
手前味噌ですが、この人の発想と引き出し、手際と探究心、それに舌の感覚は本当に凄いと思っています。 もちろん
食べることが大好きで、食べて頂くことが大好きで、食べて頂いた人から「美味しい」といって頂くことが大好きで、
そのためには決して手間を厭いません。 「一手間かけるといいことあるよ」、こんな発想から生まれた数々の『チヌ
料理』をご紹介します。 ・
『お刺身・塩焼き・潮汁』のような伝統的なチヌ料理だけはでなくて、この魚にとっては馴染みの薄い『洋風・中華風
チヌ料理』、時には『あっ!と驚きのチヌ料理』などを我が家の食卓に並んだものの中から二人三脚で紹介していきま
す。 作り方や雰囲気をうまくご紹介できればいいのですが。 ・
我が家の菩薩様について
指折り数えるようにこの日を楽しみにしていた菩薩様が鎌倉旅行に旅立った。 折悪くその日の朝トイレで持病の腰痛
が再発した。 便座に座った途端に腰がスルッと滑って激痛が走った。 心配させないで送り出してやろうと必死で痛
みをこらえていたが、菩薩様がドアを閉めた途端にそのドアに寄りかかって暫く動くことができなかった。 ・
腰痛を患う者にとって厳しいことの一つはソックスが履きにくいこと。 痛みのパターンはそれぞれなので断言はでき
ないが少なくとも私にとってはこれが一番辛い。 鎌倉から菩薩様が帰ってからは毎日ソックスを履かせてもらった。
こんなことをして貰いながら、ふと若い頃に腰痛で苦しんだことを思い出した。 30代の半ばを少し越えたころ腰痛
で2ヶ月仕事を休んだ。 寝ても痛み、起きても痛み、終いには歩行さえ困難になった。 短時間なら正座で耐えるこ
とができる。 丼物を冷ましてもらい、正座ができるわずかな時間に胃の腑にかき込んだ。 あっという間に痩せ細っ
た。 挫折感ばかりで心が荒んだ。 ・
病院に行ったらいきなり承諾書を突き付けられた。 直ちに入院、手術だといわれた。 術後5年間は保証するが、そ
の後は保証できないと聞いて逃げるように家に戻った。 それから人がいいということは何でもやった。 藁にもすが
る思いだった。 ハリ、灸、置きバリ今でもレントゲンを撮ると20本ばかりハリが残っているのが見える。 笑い話
しのようだが大根の汁も飲んだ。 クチナシの実も煎じて飲んだ。 そして整体にたどり着いた。 ・
病むと夜は長くて怖い。 そして痛みは一層つのるのだ。 コタツにすがって纔にまどろむ。 痛みで目が醒めると、
どんな時刻でも風呂に入って痛みを和らげた。 或いは深夜に起き出して徘徊した。 そうすることによって、纔なが
ら痛みを紛らわせることができるのだ。 ・
このために菩薩様はいつも風呂を保温にしておいた。 そしていつも服を着て眠り、痛みに耐えられなくなるといつ始
まるか分からない私の徘徊に備えた。 いつも林檎を1つ持って歩いた。 二人で噛りながら歩いた。 多分わずかな
蓄えも底をついたろうし、肉体的にも精神的にも疲れたに違いないのに弱音一つ吐かず希望と笑顔を絶やさなかった。
菩薩について。 サンスクリット語の『ボーディ サットヴァ』の漢訳音写語『菩ダイ薩タ』の省略語。 真実の自己
自他不二ということを徹見して悟りを開いた人。 覚有情ともいう。 私は多分この人達は自分の中に宇宙を見ている
のだと思う。 ・
悟りを開いて『仏陀』となり、一点無縁の大悲心から衆生を済渡するため、一段位を落として私達の身の回りに存在す
る。 般若心経の冒頭に出てくる『観自在菩薩』は観音様、その他にも地蔵菩薩、弥勒菩薩、文珠菩薩などなど沢山お
いでになる。 ・
私は、わが家の菩薩様は観音さまの化身だと思っている。 他人を分け隔てず、他人の喜びは我が喜び、他人の悲しみ
は我が悲しみ、施し多く見返りを求めず、こうして私の傍にいて苦難の都度手を差し伸べてくれる。 ・
何度助けられたかなあ。 こんなことで私は誰はばかる事なく、家内のことを『わが家の菩薩様』と呼んでいる。 ・
「60の手習いって何だろなあ」、漠然とそんなことを考えていましたが、最近になってその言葉のもつ意味を私なり
に理解し始めています。 「人生の一仕事を終えて晴耕雨読、悠々自適に日々を学べれば」、まあそんなことだろうと
考えていましたが少し違っていたようです。 どうやら「このまま人生を終えるわけにはいかない」という一種焦燥を
含んだ複雑な思いがあるようですね。 ・
私は今『60の手習い』として英会話の勉強に励んでいます。 50歳を少し越えた頃から「英語も話せないまま私の
人生を終える訳にはいかない」という思いを持つようになり、歳を経る毎にそれがどんどんつのっていきました。 ・
そんな役職定年を前にした59歳を迎える年頭に少し早いとは思いましたが英会話の勉強を決意しました。 もちろん
英語なんて学校を卒業するとき気前よく置き去りにしてきた方ですから殆ど『0』からの出発でした。 そこでまず極
めて初歩的な英文法の本を1冊買い求めました。 そしてこれを1年かけて頭に入れることからスタートしました。・
ともかくこの本がボロボロになるまで読んでやろうという訳です。 ・
あわせて1年後に駅前留学を始めることも決意しました。 そして逃げ出してしまわないようにそのことを家族の前で
公言しておきました。 そんな私を「この人は言い出したら絶対やるよ!」と一番信じてくれたのは娘でした。 これ
はもちろん望んだことではありましたがとても大きなプレッシャーになりました。 ・
もうひとつ私の決意に大きく関与した出来事がありました。 『黒鯛団子釣り名人への道』の竹下青年が英語の勉強を
始めたと聞いて軽い気持ちで「いいなあ!若い人は何でもできる」とメールを送ったところ、折り返し「勉強なら何歳
になってもできるはずです」と厳しいメッセージが戻ってきました。 実は私はこれに一番弱いのです。 ナニクソ!
と思いましたね。 このことも私のその後の精神的な支えになりました。 ・
そして還暦を迎えるお正月にいよいよ駅前留学にトライすることにしました。 最初に仕組みや料金を尋ねる積もりで
尻込みする自分を叱咤しながらA社の駅前店に入りました。 ところが何をどう間違えたものかいつの間にかレベルテ
ストを受ける羽目になってしまいました。 小さな部屋で待っていると天井を圧するような大男が現れていきなり質問
を浴びせかけてきました。 1年間勉強を続けてきただけに簡単な会話なら成立するに違いないと自信を持っていまし
たが、これはもろくも崩れ去りました。 冷や汗の中にただ力のなさだけを思い知ることになりました。 ・
「もう3ヶ月間勉強して改めてトライしなおそう」と考えながら、「そんなことをしていたのでは勉強なんて一生始め
られない」と思い直し会社に近いNOVAに走りこみました。 通い易いということも長続きの1つの条件です。 そ
してここでもレベルテスト、今度はとても元気のいいオーストラリア娘でした。 こうして私のレベルは『7B』と決
まりました。 『7B』というのは全くの初心者の1つ上のクラスですが、たいていはこのクラスからスタートするよ
うです。 プライドをズタズタにしない配慮かも知れません。 ・
『7B』から『7A』→『レベル6』→『レベル5』→『レベル4』・・・『レベル1』と進んでいきます。 『レベ
ル3』くらいになるとビジネス英会話の域に入ります。 そこまでは無理としても3年をかけて『レベル5』を当面の
目標におきました。 ピンクのテキストを使いながら、グリーンの表紙に憧れたものです。 ・
当然のことながら毎日が悪戦苦闘でした。 「聞こえなければ会話は成立しない」確かにその通りです。 何しろ60
年間も日本語を使い続けてきたわけですし、その間に習った英語は『ジス・イズ・ア・ペン』調の凄い発音でしたから
ネイティブ・スピークが聞き取れるはずもありません。 1クラス最大4人の編成なのですが、3人が笑っているのに
私一人がキョトン!としているという状態が毎日続きました。 もちろん現在も多分にそうです。 ・
この間、メインランゲージを書き取り、それを使って作文し、付属のCDを聞き続けるなどの努力の結果11ヶ月後に
憧れだった『レベル5』に到達し、実は昨日(06,07,09)のことですが1年半をかけて『レベル4』の試験に
合格しました。 スキルが上がるごとに上のクラスへの入学試験があります。 上のクラスへの要件を満たしているか
どうか日常のレッスンを通じてインストラクターが見極めて『推薦状』がでます。 そして入学試験に合格すれば上の
クラスに進めるという仕組みです。 私は『レベル4』への入学試験で1度つまずきました。 1ヶ月前に1度『推薦
状』を頂いたのですが力不足で不合格となり、先週になって改めて『推薦状』を頂いたという訳です。 ・
ここまで進んできて一つの大きな河を見ています。 『英語に慣れる』というレベルから『英語を学ぶ』というレベル
への此岸に立って今片足を踏み入れたと感じています。 そして彼岸には一皮剥けた私の別の世界を期待しています。
自画自賛に聞こえるかもしれませんが、これも私の生き方の一つです。 【人生を共感できたら・・・そんなページ】
の一こまとして書かせていただきました。 「まだまだやれるのだ!」という私のメッセージとして受け止めて頂けた
らと思います。 ・
釣りからの戻り、車中で『茅渟夢想氏』と「退職後をどう過ごすか」というような話をした。 彼には彼の秘めたる思
いがあるようだった。 一足先にその域に入った私の場合働かない道を選んだ。 それは長年の希望でもあったので授
かった大いなる自由時間は身にしみて有難いと思っている。 そして孫の顔を見たり、時に小旅行を楽しんだりする。
それはそれで楽しくはあるのだが、改めて「価値ある老後をどう生きるか」と問いかけられると、考えさせられる難し
い問題だと思う。 ・
retireeになって1年半、どんな日常を送ってきたか振りかえってみた。 布団を上げて脱衣所やトイレまで掃
除機をかけ、ベランダの植物に水を遣る。 毎食後は食器や鍋釜を洗い綺麗に拭いて収納棚に納める。 夕食後にはレ
ンジの汚れも洗い落としておく。 時には包丁も磨く。 風呂桶を洗い、適当な時間にお湯を張る。 「奥さんは何を
しているんですか?」と尋ねる人もいるけれど、かねがね手伝ってやらなければと思っていたし、私はむしろ主婦の仕
事が好きだ。 1日を終え、少量の焼酎をお湯で割って食前を楽しむ。 求めがあれば買い出しにも付き合うし、隔週
病院まで送り迎えもする。 ・
毎週3回は水泳に出かける。 結局週に5回(デイタイム会員のマキシマム)出かけていることも多い。 月、水、金
は水泳教室、基本的にこの3回には出来るだけ参加している。 1回当たり2時間から2時間半はプールに浸り2キロ
前後を泳ぐ。 それからゆっくりとお風呂に入る。 ジムへの行き帰りは歩く。 NOVAの行き帰りも歩く。 少な
くとも週に5日は1万歩以上歩く。 2万歩に迫ると水泳と重なった日にはさすがに「きついなあ」と感じる。 ・
週に1〜2回はNOVAに出かけ、1回当たり2レッスンを受講する。 毎回レッスン内容のまとめ(言い回しとかボ
キャ)をする。 月に1度Urban English Schoolでフリートークを楽しむ。 空き時間があれば
NHK WORLD NEWSを読む。 CNN NEWSを聞くこともある。 なかなか聞き取れないがともかく聞
く。 時に基本に戻り基礎的な文法書を読む。 こうして基礎に戻るのはとても大切だと思う。 集中したいときには
公民館に出かけて図書室で2〜3時間を過ごす。 余談だが、こうしてお互いが自由な時間を持つことは2人で過ごす
老後には不可欠だ。 ・
2週に1度の割合で釣りに出掛ける。 準備に概ね前日の半日が潰れる。 砂を採ったり、糠を貰ったり、餌やサナギ
を買いに出かけたり、調合したり。 もちろん食料や氷、水分の準備、それに道具一式の点検もしなければ。 釣りか
ら戻ると鱗を落とし内臓を出し血合いまで綺麗に取って水洗いをして冷蔵庫に納める。 鱗や内臓は新聞紙にくるんで
ゴミ箱に捨てる。 シンクはもちろん綺麗に洗い流す。 ここまでは釣り人の義務だと思う。 それから道具の掃除を
してHPの更新に取り掛かる。 まあ疲れ果てているので即日完成とはなかなかいかない。 日曜日に回り、時として
月曜日にもアップできないことがある。 構想力や表現力に乏しいので情けないかな時間がかかる。 ・
広島交響楽団の定期演奏会に毎月(定期会員)出かける。 直前のリハーサル(3日間)に1日は出かける。 時に2
日出かけることもある。 その他にディスカバリーシリーズ(広響)が年4回、娘達の演奏会が年5回、音楽大学から
の招待が年2〜3回とクラシック音楽にも結構親しんでいる。 でも好きな割にはよく分かっていないし、何にも演奏
できない。 「バイオリンでもフルートでも教えるよ」と言ってくださる人もいるが、筋金入りの不器用にはそんなこ
とはとても無理だと諦めている。 「いつか一緒に歌うチャンスがあるかも知れないから、父さん歌を習ったら」と娘
に勧められるが、経済的にもそんなゆとりはありませんって。 ・
広響の団員さんにも知己ができた。 時に水泳の仲間たちとビアガーデンにでかけて談笑することもある。 こうして
まとめてみるとどのように時間を工面してきたんだろうと思ったりする。 健康で知的に老後を過ごしたい。 このよ
うに考えながらこの1年半を生きてきた。 その他に大学の公開講座にはこれからも出来るだけ参加しようと思ってい
る。 ・
こんな毎日を送りながら、改めて「どう生きるか」と問いかけられると、確かに何か足りないものがある。 そしてそ
れが何なのか判然としないまま後悔を繰り返してしまう。 結局英語の勉強と同じことで、1ステップを上りきればそ
こはもはや目標ではなく、新たな苦悩の出発点なのだと思う。 どう生きたって満足できない部分が残ってしまうに違
いない。 それでも何かを求めて進むのは人の性かもしれない。 ・
やはり『人様の役に立っている』という自覚のもとに人と繋がっていることは「どう生きるか」ということに関して大
きなインパクトなのだろうと思う。 それで苦悩や後悔が断ち切れるのか、それは分からないし新たな苦悩や後悔を引
きずることになるかも知れない。 それでも1歩を踏み出してみよう。 最近になってそんなことを考えている。 ・
具体的には、国際交流協会等で何かボランティアができないかと思っている。 日本語の習得にサポートが必要な人が
きっといるはず。 そのために今まで学んできたことが少しでも役に立てば、学びそのものの価値も高まるのではない
だろうか。 より価値ある生きがいが見えてくるのではないかとそんなことに期待している。 ・
私は岡山県の西部、JR山陽線沿線の小さな田舎町で生まれ育ちました。 南と北を山に遮られ、その間の僅かな土地の耕作が当時の唯一の産業でした。 低地での米作りと丘陵地帯での桃を中心とした果物作りがその全てといってよかったでしょう。 米作りの水源は溜池でした。 水量豊かな川がなかったため沢山の溜池が作られていて、それがこの町の一つの風景になっていました。
私が少年時代を過ごした地区にも周囲1里(4キロ)と言われたとても大きな溜池がありました。 この池は一面蓮の葉っぱで覆われていて、夏になると白い花が沢山咲き、秋になるとジョロの口のような花床の中に皮を被った蓮の実が実りました。 皮を破って白い実の淡い甘みを味わったものです。
蓮の葉っぱが大きく開く頃になると、密生した葉っぱの間からチュポッ!チュポッ!と音が聞こえるようになります。鮒が浮いてきて、餌をあさるのか、酸素を吸収しているのか水面に小さな波紋をこしらえています。 人の気配を感じると直ぐに潜ってしまいますが、暫くすると再び姿を現します。
そこら辺りに転がっている細い竹竿とブリキのバケツ、
釣りからの戻り、車中で『茅渟夢想氏』と「退職後をどう過ごすか」というような話をした。 彼には彼の秘めたる思